墨に舞う

     3歳より母に日本舞踊の手ほどきを受け、18歳より母の師である歌舞伎俳優 市川子團次先生に師事しました。子團次先生の元では舞台に向き合う姿勢、表現と個性の大切さを学びました。それ故に日本舞踊に対する特別な思いがあり、その思いを形にしてみたいと思いました。

 習った演目から10種類を選びそれぞれのイメージで演目を書き始めました。しかし、 思いを表現するにはまだ足りず、歌も書き加えてみようと思いました。そして歌を表現するために仮名を用いる必要が出てきたのですが、仮名の基礎もないところからのスタ ートとなり、無謀とも思える挑戦から始まりました。未熟な技術でも筆を進めることができたのは、曲、振り、間を体が覚えていたことがあったからではないかと思います。 全く舞ったことのない演目では作れなかった作品だと思います。舞台の一場面を切り抜 く事ができればと、切り絵を加え定式幕で額装してみました。 

  作品作りは自分探しでもあると思います。今回の作品は、制作過程においても、自分の何かを探せたような気が致します。

  無謀とも思える挑戦にご指導くださった中嶋宏行先生に心より感謝申し上げます。     

2024.3.16-20「墨に舞う」書

会場:銀座ギャラリーサロンTACT

書展「墨に舞う」に寄せて

     書を学ぶ織田文子さんは長く日本舞踊を習っていた。歌舞伎の熱烈なファンでもある。だから今回はその演目を筆で書いてみた。短絡すれば話はそれで終わってしまう。とても分か りやすい。だが、ことの本質はそこにはない。本質は舞踊と書の関係性にある。 

  東洋、とりわけ日本や東南アジアの舞踊の多くは腰を落としたまま身体を水平に移動させ る。手足の動きはゆっくりした円運動が基本だ。そのルーツは稲作の動きにある。一方西洋 では、例えばバレエのように垂直方向に高くジャンプしたり、手足を勢いよく突き上げたり する直線運動が多い。こちらは騎馬や狩猟の動き。西洋の舞踊が一定のリズムで躍動すると すれば、東洋の舞いは水の流れのように途切れなく続いていく。 注目すべきは、東洋の舞いと書の動きに共通点があるということだ。詩人の大岡信は、 「書というものは舞踏に最も近いといえるのではなかろうか」と指摘している。一旦筆を紙 に置いたら後戻りは出来ない。一度書いた線を取り消すことは出来ない。ただ前へ前へと書 き進むだけである。決まった文字を書いている以上、一画目から始めて最終画を書いたらそ れで終わりである。スタートからフィニッシュまで、作品は一定の時間軸に沿って現前して いく。これは一つの演目を舞う日本舞踊の動きと相通じている。どちらも腰を落とし、定ま った始点から終点まで時の流れに乗って綿々と動く。その手には扇か筆。舞いの軌跡は空間 に消えてしまうのでライブになり、書はその軌跡が紙上に残るので展覧会になる。その違い だけである。ここに、それぞれの動機で始めた日本舞踊と書が、織田さんの中で融合する必 然を見た思いがする。そんなことを考えながら作品の前に立つと、連綿とした筆の運びが舞 いの振りとシンクロし始め、やがて演目の世界へと引き込まれていくのがわかる。 

  併せて、今回初めて仮名作品を手掛けたことにも注目したい。仮名書きは技術を求める。 漢字一文字書きの場合、腕が拙くても偶然性やライブ感が手伝って味のある作品になること がある。だが仮名書きはそれを許さない。基本が出来ていないと破綻してしまってものには ならない。起筆、送筆、収筆、字形、連綿、布置すべてに基本がある。日本舞踊には舞(ま い)、踊(おどり)、振(ふり)それぞれに基本動作があり、それをマスターした上に如何 にして表現を盛るかが問われると聞く。ここにも書、とりわけ仮名書きと日本舞踊には通底 するところがあるように思う。

  今回、織田さんは仮名書きの基礎学習と作品制作を並行してこなすのに苦労されていた。 織田さんは基礎固めの後に創作ではなく、あえて同時に取り組むという険しい道を選んだ。 そのことで基礎を学ぶことの意義を改めて実感したことだろう。加えて、今回は切り絵や額 装も自身の手によってなされたそうだ。

  手慣れたことを繰り返すのはたやすい。だが未知の領域に挑んでこそ、そこに成長や発見 の喜びがある。何か新しいものをつくりながら未だ見ぬ自分と出会うために前進する。その 果敢な挑戦に拍手を送りたい。 

 中嶋 宏行      

創作人形作家 工藤陽子 

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